無明の闇(あん)を破するゆゑ 智慧光仏となづけたり
一切諸仏・三乗衆 ともに嘆誉(たんよ)したまへり
(浄土和讃)
阿弥陀仏の光は無明の闇を破るので、智慧光仏と申し上げます。
すべての仏も、菩薩、縁覚、声聞も、共にほめたたえておられます。
南無阿弥陀仏
埼玉県寄居町にある浄土真宗の「庵」(小さなお寺)です。法要・仏事・文化教室など、お気軽にご利用下さい。
浄土真宗の教義や仏教の教えについて
無明の闇(あん)を破するゆゑ 智慧光仏となづけたり
一切諸仏・三乗衆 ともに嘆誉(たんよ)したまへり
(浄土和讃)
阿弥陀仏の光は無明の闇を破るので、智慧光仏と申し上げます。
すべての仏も、菩薩、縁覚、声聞も、共にほめたたえておられます。
南無阿弥陀仏
仏さまの光に照されて 私の心に明りがつく
(山本仏骨 師)
When the Buddha shines that Light on me, oh my whole heart just lights up!
解説(法話)は、真宗教団連合のウェブサイトへ
当庵にお参りの方にはこちらのカレンダーを差し上げております。
南無阿弥陀仏
慈光はるかにかぶらしめ ひかりのいたるところには
法喜をうとぞのべたまふ 大安慰を帰命せよ
(浄土和讃)
阿弥陀仏の慈しみの光はあらゆるものを照らします。その光が届くところでは、喜びの心を得るといわれています。大いなる安らぎと慰めを与える大安慰(だいあんに)に帰命するがよい。
※「大安慰」は阿弥陀如来の別名です。
南無阿弥陀仏
道光明朗超絶せり 清浄光仏とまうすなり
ひとたび光照かぶるもの 業垢(ごうく)をのぞき解脱をう
(浄土和讃)
阿弥陀仏のさとりの光は明るく清らかであるから、清浄光仏と申し上げます。
ひとたびこの光に照らされたものは、罪や煩悩が除かれ、みなさとりを開くのであります。
南無阿弥陀仏
仏光照曜(ぶっこうしょうよう)最第一 光炎王仏となづけたり
三塗(さんず)の黒闇ひらくなり 大応供(だいおうぐ)を帰命せよ
(浄土和讃)
阿弥陀仏の光は最も優れているから、光炎王仏と申し上げます。
その光は、地獄・餓鬼・畜生という迷いの闇の世界を打ち破ります。
あらゆる供養を受けるにふさわしい大応供に帰命するがよい。
※「大応供」とは阿弥陀如来の別名です。
南無阿弥陀仏
清浄光明ならびなし 遇斯光(ぐしこう)のゆゑなれば
一切の業繋(ごうけ)ものぞこりぬ 畢竟依(ひっきょうえ)を帰命せよ
(浄土和讃)
阿弥陀仏の清らかな光に並ぶものはありません。この光に出会えば一切の悪い行いも、その力が失われます。畢竟依(ひっきょうえ)に帰命するがよい。
※畢竟依とは、すべての人の究極の依りどころということ
南無阿弥陀仏
光雲無碍如虚空(こううんむげにょこくう) 一切の有碍(うげ)にさはりなし
光沢かぶらぬものぞなき 難思議(なんじぎ)を帰命せよ
(浄土和讃)
輝く雲のように広がる阿弥陀仏の光は、どのような煩悩ににも妨げられることがありません。その光のはたらきを受けない者はいません。はかりしれないはたらきの難思議に帰命するがよい。
※「難思議」とは「不可思議」の意であり、阿弥陀仏の別名です。
南無阿弥陀仏
今どんなに美しく咲いている桜でもいつかは必ず散ります。
江戸時代の曹洞宗の僧侶で、歌人でもあった良寛和尚の歌です。
無常にも時間は止めることができません。限られた「いのち」の中で、如何に日々を生きていくか、悔いの残らないようにすることが大切だと思います。
私たちは阿弥陀さまのお救いを頂き、喜怒哀楽の中にも充実した生活を過ごさせていただいております。有り難いことです。
南無阿弥陀仏
解脱の光輪きはもなし 光触(こうそく)かぶるものはみな
有無をはなるとのべたまふ 平等覚に帰命せよ
(浄土和讃)
阿弥陀仏のさとりの光は果てしなく照らします。その光を受ける者は、みな有無の邪見を離れると言われています。すべてのとらわれを離れさせる平等覚に帰命するがよい。
南無阿弥陀仏
智慧の光明はかりなし 有量(うりょう)の諸相ことごとく
光暁かぶらぬものはなし 真実明に帰命せよ
(浄土和讃)
阿弥陀仏の智慧の光明は、はかりしれません。迷いの世界の者で、その光に照らされない者はいません。真実の智慧の光である真実明に帰命するがよい。
南無阿弥陀仏