無明の闇を破するゆゑ

無明の闇(あん)を破するゆゑ 智慧光仏となづけたり
一切諸仏・三乗衆 ともに嘆誉(たんよ)したまへり
(浄土和讃)

阿弥陀仏の光は無明の闇を破るので、智慧光仏と申し上げます。
すべての仏も、菩薩、縁覚、声聞も、共にほめたたえておられます。

慈光はるかにかぶらしめ

慈光はるかにかぶらしめ ひかりのいたるところには
法喜をうとぞのべたまふ 大安慰を帰命せよ
(浄土和讃)

阿弥陀仏の慈しみの光はあらゆるものを照らします。その光が届くところでは、喜びの心を得るといわれています。大いなる安らぎと慰めを与える大安慰(だいあんに)に帰命するがよい。
※「大安慰」は阿弥陀如来の別名です。

道光明朗超絶せり

道光明朗超絶せり 清浄光仏とまうすなり
ひとたび光照かぶるもの 業垢(ごうく)をのぞき解脱をう
(浄土和讃)

阿弥陀仏のさとりの光は明るく清らかであるから、清浄光仏と申し上げます。
ひとたびこの光に照らされたものは、罪や煩悩が除かれ、みなさとりを開くのであります。

仏光照曜最第一

仏光照曜(ぶっこうしょうよう)最第一 光炎王仏となづけたり
三塗(さんず)の黒闇ひらくなり 大応供(だいおうぐ)を帰命せよ
(浄土和讃)

阿弥陀仏の光は最も優れているから、光炎王仏と申し上げます。
その光は、地獄・餓鬼・畜生という迷いの闇の世界を打ち破ります。
あらゆる供養を受けるにふさわしい大応供に帰命するがよい。
※「大応供」とは阿弥陀如来の別名です。

清浄光明ならびなし

清浄光明ならびなし 遇斯光(ぐしこう)のゆゑなれば
一切の業繋(ごうけ)ものぞこりぬ 畢竟依(ひっきょうえ)を帰命せよ
(浄土和讃)

阿弥陀仏の清らかな光に並ぶものはありません。この光に出会えば一切の悪い行いも、その力が失われます。畢竟依(ひっきょうえ)に帰命するがよい。
※畢竟依とは、すべての人の究極の依りどころということ

光雲無碍如虚空

光雲無碍如虚空(こううんむげにょこくう) 一切の有碍(うげ)にさはりなし
光沢かぶらぬものぞなき 難思議(なんじぎ)を帰命せよ
(浄土和讃)

輝く雲のように広がる阿弥陀仏の光は、どのような煩悩ににも妨げられることがありません。その光のはたらきを受けない者はいません。はかりしれないはたらきの難思議に帰命するがよい。
※「難思議」とは「不可思議」の意であり、阿弥陀仏の別名です。

解脱の光輪きはもなし

解脱の光輪きはもなし 光触(こうそく)かぶるものはみな
有無をはなるとのべたまふ 平等覚に帰命せよ
(浄土和讃)

阿弥陀仏のさとりの光は果てしなく照らします。その光を受ける者は、みな有無の邪見を離れると言われています。すべてのとらわれを離れさせる平等覚に帰命するがよい。

智慧の光明はかりなし

智慧の光明はかりなし 有量(うりょう)の諸相ことごとく
光暁かぶらぬものはなし 真実明に帰命せよ
(浄土和讃)

阿弥陀仏の智慧の光明は、はかりしれません。迷いの世界の者で、その光に照らされない者はいません。真実の智慧の光である真実明に帰命するがよい。

弥陀成仏のこのかたは

弥陀成仏のこのかたは いまに十劫をへたまへり
法身の光輪きはもなく 世の盲冥をてらすなり (浄土和讃)

阿弥陀仏は、仏となってから既に十劫(じっこう)の時を経ました。
さとりの身から放たれる光輪は果てしなく、迷いの闇にいるものを照らします。
※「劫」は長い時間の単位

三帖和讃(浄土和讃・高僧和讃・正像末和讃)は親鸞聖人が撰述された和讃です。