顔容端正(げんようたんじょう)たぐひなし 精微妙躯非人天(しょうみみょうくひにんでん)
虚無之身無極体(こむししんむごくたい) 平等力(びょうどうりき)を帰命せよ
(浄土和讃)
顔かたちが端正であることは比べようがありません。
その身が美しくすぐれていることは、人間や天人のたぐいではありません。
かたちを超えたさとりの身を得ているのです。
すべてのとらわれを離れさせる平等力に帰命するがよい。
南無阿弥陀仏
埼玉県寄居町にある浄土真宗の「庵」(小さなお寺)です。法要・仏事・文化教室など、お気軽にご利用下さい。
顔容端正(げんようたんじょう)たぐひなし 精微妙躯非人天(しょうみみょうくひにんでん)
虚無之身無極体(こむししんむごくたい) 平等力(びょうどうりき)を帰命せよ
(浄土和讃)
顔かたちが端正であることは比べようがありません。
その身が美しくすぐれていることは、人間や天人のたぐいではありません。
かたちを超えたさとりの身を得ているのです。
すべてのとらわれを離れさせる平等力に帰命するがよい。
南無阿弥陀仏
安楽声聞・菩薩衆 人・天智慧ほがらかに
身相荘厳みなおなじ 他方に順じて名をつらぬ
(浄土和讃)
お浄土の声聞や菩薩がた、人間や天人は智慧を身にそなえ、
姿かたちや功徳もみな同じです。
他の世界での呼び方に順じて名乗っています。
南無阿弥陀仏
神力自在なることは 測量すべきことぞなき
不思議の徳をあつめたり 無上尊を帰命せよ
(浄土和讃)
お浄土の菩薩の自在なはたらきは、はかり知ることができません。
その身には、はかり知れない功徳がそなわっています。
この上なく尊いはたらきをそなえた無上尊に帰命するがよい。
※「無上尊」とは、上とか下とかという比較するこころから解放されて、それ自身で尊いということです。
南無阿弥陀仏
安楽浄土にいたるひと 五濁悪世にかへりては
釈迦牟尼仏のごとくにて 利益衆生はきはもなし
(浄土和讃)
阿弥陀仏の浄土に往生した人は、濁りと悪の世に還りきて
釈尊と同じように、すべてのものを救います。
南無阿弥陀仏
観音・勢至もろともに 慈光世界を照曜(しょうよう)し
有縁を度してしばらくも 休息あることなかりけり
(浄土和讃)
観音菩薩・勢至菩薩はともに、慈しみの光で世界を照らします。
縁あるものを救い取って、少しも休む間ががありません。
※観音菩薩:慈悲の徳をあらわす菩薩 勢至菩薩:智慧の徳をあらわす菩薩
南無阿弥陀仏
十方衆生のためにとて 如来の法蔵あつめてぞ
本願弘誓に帰せしむる 大心海を帰命せよ
(浄土和讃)
すべての衆生のために、あらゆる仏がたの功徳をそなえ、阿弥陀仏の本願を勧めてくださっています。
海のように大きな慈悲の心をそなえている大心海(だいしんかい)に帰命するがよい。
※大心海とは阿弥陀仏の別名です。
南無阿弥陀仏
安楽無量の大菩薩 一生補処にいたるなり
普賢の徳に帰してこそ 穢国(えこく)にかならず化するなれ
(浄土和讃)
阿弥陀仏の浄土の無数の菩薩がたは、みな一生補処の位に至っています。
菩薩は慈しみのはたらきをそなえており、迷いの世界に還り来てあらゆるものを教え導きます。
※一生補処(いっしょうふしょ)の位:次の生涯には仏となることができる位
南無阿弥陀仏
弥陀初会の聖衆は 算数のおよぶことぞなき
浄土をねがはんひとはみな 広大会を帰命せよ
(浄土和讃)
阿弥陀仏の最初の説法に集まった聖者がたは、数えられないほどです。
浄土に生まれることを願う者はみな、広大会(こうだいえ)に帰命するがよい。
※広大会は阿弥陀仏の別名です。極楽浄土に多数の者が集まる徳を意味します。
南無阿弥陀仏
仏光測量なきゆゑに 難思光仏となづけたり
諸仏は往生嘆じつつ 弥陀の功徳を称せしむ
(浄土和讃)
阿弥陀仏の光ははかり知れないので、難思光仏と申し上げます。
あらゆる仏がたは、すべてのものを往生させる阿弥陀仏の功徳をほめたたえておられます。
南無阿弥陀仏
光明てらしてたえざれば 不断光仏となづけたり
聞光力のゆゑなれば 心不断にて往生す
(浄土和讃)
阿弥陀仏の光は絶えることなく照らすので、不断光仏と申し上げます。
その光のはたらきを聞く信心も絶えることなく、往生することができます。
南無阿弥陀仏